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雪色のプリマヴェーラ chapter1

 

 

お隣さん健人くん。

第1話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

......だめ、何も描けない。いくらパレットに色をのせても何も思い浮かばない。目の前に立ちはだかる真っ白なキャンバスはまるで巨大な壁だ。筆を置いて無駄に広いリビングのソファへと身を沈めれば、一気に微睡みの世界へと誘われた。

 

 

〈...、○○、○○、起きろって〉
『んん、、』
〈こんなとこで寝てたら風邪引くぞ?〉
『ふぁ......、慧さん、おかえりなさい』

 

 

腕を伸ばせば当たり前のように唇が重なる。わたしの頬に添えられた左手の薬指には、今日もキラキラと眩しすぎるくらいに指輪が光っていて。

 


慧さんとはかれこれ2年くらいこの曖昧な関係。確かな未来も約束もない代わりに、アトリエとしてこの部屋を与えられたのは8ヶ月くらい前のこと。普通の美大生、いや、OLだって暮らすには勿体ないくらいの高層マンションの一室で、わたしは絵を描き、そしてわたし達は禁忌を犯し続けている。

 

 

〈最近描けてないみたいだな〉
『ん、ごめんなさい......』
〈いいよ、焦らなくて、俺は○○とこうしていれるだけで十分だから〉

 

 

彼のその言葉に多分嘘は無い。正直なところ彼は絵に関心はないし、この部屋の家賃だって全身ブランド品で固めた彼からすれば痛くも痒くもないはず。.........分かってる、彼にとってこれは遊びだって。だからこんな風に胸がきゅう、って苦しくなったって仕方ないんだ。

 

 

〈じゃあそろそろ帰るな〉
『えっもう、?』
〈○○の顔見に来ただけだし、それに今日は結婚記念日だから〉
『そ、うなんだ!じゃあ早く帰らなきゃね、あっちゃんとプレゼント買った?』

 

 

無理矢理頬を上げ思ってもない言葉をぺらぺらと紡ぐ。当たり前だろ、と微笑んだその顔は見ていられなくて。マンションの下まで送り届ければ、言い様もない虚しさに襲われた。

 

 

『.........指輪くらい外してよ、』

 

 

ひとり呟いた言葉は冷たいアスファルトの上に落ちる。それに続いて落ちたのは、大粒の涙で。何泣いてるの、もう慣れたじゃん、こんなこと...... 早く部屋に戻って強いお酒でも飲んで寝てしまおう、どうせもう今日は描く気にならないんだから。

 


頬に流れる涙を拭う時間すら惜しくてエレベーターの閉ボタンを連打した、その時。ガッ、と大きな音を立てた扉にびくり、と肩を揺らす。えっ、なに、、?恐る恐る視線を上げたそこには、黒のキャップを目深に被ったスタイルの良い若い男性。

 

 

「あ、すみません、人が乗ってると思ってなくて......」
『、大丈夫です、何階ですか?』
「20階です、ありがとうございます」
『いえ、』

 

 

ぺこりと会釈したその瞳はまんまるに開かれていて。そりゃそうだ、焦ってエレベーターに乗ったら大の大人がこんなにボロボロ泣いてるんだもん。あー、気まずいな、早く着かないかな、、20階ってわたしと同じだけど、こんな若い人住んでたっけ?

 

 

「あの、」
『っわ、ぁ、ごめんなさい...』

 

 

まさか話し掛けられると思ってなくてまたビクッと肩を窄めてしまう。す、と差し出されたのはきちんとアイロンのかけられたハンカチ。

 

 

「大丈夫ですか?」
『っ、大丈夫、です』

 

 

思わず受け取ってしまったのはあまりにも素直な心配と優しさが溢れた表情だったから。柔らかな柔軟剤の香りをたっぷりと纏ったハンカチは心の弱い部分にそっと寄り添う。

 


拭うために渡されたのに、さらに涙が溢れるのはなんでだろう。えっ、と戸惑った声に申し訳なくなって。絶対迷惑だろうな、こんな夜に号泣してる見知らぬ女なんて、わたしだったら多分関わらないもん。

 


ポーン、と狭いエレベーターに響く間抜けな音が到着を知らせる。

 

 

「あ、着いちゃった、何階ですか?」
『...っ、同じです、』
「ほんと?すごい偶然ですね」
『ですね 』

 

 

ずず、と鼻をすすりながらなんてことない相槌を打つ。そして彼の足が止まったのは、ずっと空き部屋だったお隣さんで。うそ、お隣さんなのにこんな出逢い方って第一印象最悪。

 

 

『あの、ほんとにすみませんでした...!ハンカチ洗ってお返しするので』
「全然大丈夫ですよ」
『いえ、ほんと、洗わせてください、、』
「はは、じゃあお願いしようかな(笑)......あ、あとそのワンピース綺麗ですね」

 

 

見下ろした真っ白のワンピースにはいくつもの色が飛び散っていて、それはまるで色とりどりの花弁が舞っているみたいになっている。実際は描く時に楽だからって着てたらこうなったんだけど。

 

 

『ふふ、絵の具が散っちゃってるだけなんですけどね』
「絵の具?」
『あ、わたし美大生で絵を描いてて』
「えっ、そうなの?どんな絵?」

 

 

唐突に前のめりになった彼の瞳がキラキラと輝く。あれ、どこかで......

 

 

『結構色々描いてます、イメージからなんとなく描いたりとか...、あの、絵お好きなんですか?』
「うん、って言っても時間できたら美術館行ったりするくらいなんだけど、クリムトとか好きで」
『!わたしもクリムト好きです!』
「マジで?俺クリムトの接吻がすごい好きでさ、なんていうの、」

 

 

饒舌に語る彼の表情はころころと変わる。その瞳は相変わらずきらきらと輝いていて。なんか、可愛らしい人だな。多分年上だけど。わんこっぽいというか、母性本能を擽るタイプってこういう人なんだろうなあ。

 

 

「あ、ごめんね、喋り過ぎちゃった」
『いえ、すごく絵もクリムトもお好きなんだなあって伝わりました!』
「えっと、...名前聞いてもいいかな?」
『あ、○○です』

 

 

○○ちゃん、と桃色の唇が動く。何故だか大切そうな響きを含んで聞こえたそれに、トク、と心臓が音を立てた。

 

 

「○○ちゃんはどうして美大に入ったの?」

 

 

直球な質問にぱちり、と睫毛を揺らす。入試の面接や大学に入ってから散々聞かれてた質問のはずなのに、すっかりその答えを忘れてしまっていて。わたしが美大を選んだのは、

 

 

『絵を、描きたいからです、......ってすごい単純ですよね(笑)』
「...ううん、今の○○ちゃん綺麗だった」
『、へ?』

 

 

ぽん、と白くて細い綺麗な手が頭にのる。トクトクと煩く鳴る心臓も、じんわり掌にかいた汗も、バレないように俯けば、わたしの黒髪がするりと彼の指を舞った。

 

 

「またね、○○ちゃん」
『ッ、また...です、』

 

 

また、があるんだ。コツコツと踵を鳴らしながら再度扉の前へ戻る彼に声をかける。
もし、もし万が一わたしの予想が当たっていたら答えてもらえない質問かもしれないけれど。

 

 

『あの!』
「ん?」
『お名前聞いても、いいですか?』

 

 

きょとん、とした彼が俯いてふっと笑う。外したキャップから零れ落ちたのは、蜂蜜色の髪。

 

 

「お隣さんの、中島健人です」

 

 

目を見張ったわたしを見て悪戯っぽくくしゃ、と目元に皺を寄せた彼がおやすみ、と言い残して扉の向こうへと消える。

 


え、お隣さんが芸能人だった、なんてそんなこと現実にあるの?それに、.........中島さん、めちゃめちゃかっこよかったな。なんて、さっきまで別の男の人のことで泣いていたのに、我ながら単純すぎる。

 


ふとキャンバスの前に座れば、散々思いつかなかったのに色んなイメージや色が頭の中に浮かんできて。中島さんのおかげかも。
思うがままに筆を動かせば、さっきまでの暗く淀んだ気持ちはいつの間にか跡形もなく消えていた。